2025年度入試情報

伝道者の声

筧 牧人

主の深い憐れみによる召し

伊予長浜教会 牧師
筧 牧人

「君はあほうだから、牧師になるに違いないよ。」とその老牧師はわたしに言いました。場所は阪神大震災から数か月後、被災地にあった喫茶店でした。わたしはこの老牧師に、自分がキリスト教に嫌気がさしていること、教会などに通うのはもううんざりだということを語っていました。それに対して彼はニコリと笑って言ってのけたのです。腹が立って仕方ありませんでした。しかし、それから四年がたって、仏教系の大学を卒業するとき、わたしはキリスト教の信仰を持って一生を生きたいと願うようになっていました。それと同時に牧師として教会に仕えたいと思うようになっていました。クリスチャンホームで育ち、幼児洗礼を受け、中学で信仰告白をして、家族の信仰の中にいたわたしは、大学の生活の中でキリスト教とは全く違う価値観や宗教に攻撃的であったり、批判的である人々と出会い、交わりを深める中で逆に自分の信仰を自覚させられたといってよいと思います。けれども、信仰が自覚されてキリスト者として生きたいということと同時に牧師になりたいという思いが与えられたのは不思議なことでした。なぜだろうかと自分でも思いました。人から聞かれていろいろと説明するのですが、自分でも本当はよくわかりませんでした。でも、今はわかることがあります。コリントの信徒への手紙Ⅰ十二章二三~二四節に「わたしたちは体の中でほかよりも恰好の悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもって見栄えをよくしようとします。見栄えのよい部分にはそうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」とあります。わたしは全キリスト者の中で見劣りのする部分だったのです。すなわち特段の「あほう」だったのです。そのようなわたしを憐れみ、主は、教会に仕え、信仰者に仕え、御言に日々向き合い続ける務めにわたしを召されました。そのようにして、わたしをご自分から離れないようにしてくださったのだということだと思います。そのために牧師になる志を主が与えてくださったのではないかと思います。

わたしが東京神学大学に入学すると、件の老牧師もちょうど東京に住まわれていて、わたしをたびたびご自宅に呼んで話を聞かせてくれました。主の復活は真実であること、教会で生きるならば復活のキリストに出会わされることを教えてくださいました。わたしは東京神学大学を五年で卒業し、卒業後すぐ招聘された教会で十七年目を迎えようとしています。四国の小さな港町にある礼拝出席は十名に満たない教会です。この教会では日々奇跡が起こります。まさかという人が受洗する。どうあっても足りないお金が不思議な形で満たされる。一人一人の信仰者の中で確信が与えられ、成長していく。それらのことを日々見せられて、復活の主を身近に感じざるを得ません。不信仰な私であっても復活の主キリストが今ここにおられることを信じさせられ、不敬虔で不遜なわたしでも畏れを感じさせられて真摯に教会に仕える者とならせられ、弱いわたしでも主にある希望をもって忍耐する者にさせられています。主はこの「あほう」が御自分のものとして生きるために必要な務めを深い憐れみをもって与えてくださったのだと、ただ感謝をして、牧師をさせていただいています。