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伝道者の声
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大きな決断 でも大きくない決断
大学院博士課程前期課程2年
菊地 信行
献身という言葉を聞くと、何か大きな決断をしているかのように感じられることがあるかもしれません。事実、それが大きな決断という部分もありますが、私自身の感じ方として、決して大きな決断をしたようには捉えていないのです。この言い方だと語弊を生むかもしれませんが、軽んじているのではありません。私の言いたいことは、献身するということは、自分の素朴な志あるいは召命を実現するという、それ以上の意味を持っていなかったということです。しかし、一方で献身することにネガティブな考えがないわけではありませんでした。それは、献身するタイミングと、献身それ自体に対する不安です。
私が召命を受け、献身を決意したのは大学在学中でした。卒業と同時に入学するというのは早すぎるのではないか。これは今でも時々考えることがあります。けれども入学してから実感したことは、若くて未熟であっても、伝道者としてのスタートが早くても良いということです。聖書の知識や神学、社会で働いた経験や実績、それらを備えて入学される方はたくさんいらっしゃいます。何も持っていない自分は何か欠けている人間のように感じることもありました。それでも、この若さであっても、神学とは別に、何かとても大切なことを学んでいるような実感があります。足りないからこそ、早く多く吸収しようという意欲も生まれてくると思います。この実感が、伝道者として立つ時に若さや未熟さが悪ではないと思えたきっかけになりました。
また献身という言葉から連想されることは良い印象だけではありませんでした。今の自分の生活に制約が課されるような、何かを手放さなければならないような、そんな生活が待っているのかと想像し、窮屈そうな印象をもつこともありました。しかし今では、それは間違った印象だと感じています。私にとって献身とは、何かを諦めることではなく、その先に自分の想像を超える何かを与えられる、あるいは得られるものを分かち合うことだと考えています。私が今得ているものは、キリスト者としての自覚、キリスト者であることの誇らしさ、喜び、平安です。そして、神からの恵みとして与えられているこの経験を、ともに分かち合うようにと召し出されているのだと思うのです。