伝道者の声
神様の恵みと憐れみによって
西宮一麦教会 牧師
橋本 いずみ
主の招きに従って歩みたいと願い始めて20年が経ちました。わたしは、今、その時には知り得なかった主なる神さまとの関係に導かれています。
両親も祖父母もクリスチャンという家庭に生まれ、幼児洗礼を授けられ、教会の交わりの中で育てられました。礼拝に行くけど、聞いた御言葉はすぐに忘れてしまう。聖書は手元にあるけど日曜日にしか開かない。お祈りは、しなくていいなら、したくないと思っていました。それは、中学3年生の時に、教会献堂礼拝で神さまが生きて働いてくださると示されて信仰告白をしてからも同じでした。
高校3年生の夏、西日本教会青年同盟の献身修養会に参加し、神さまが望んでいることがあると教えられ、「お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカによる福音書1章38節)との祈りのうちに、2002年4月に東京神学大学に進学しました。
神さまに従いたいが、神さまが望んでいる姿とは程遠く、「なぜ神さまはこんな自分を召されたのか」と問う日々でした。続けて出席していた献身修養会で、復活の主イエス・キリストがトマスに現れてくださる聖書の言葉(ヨハネによる福音書20章24-29節)を通して、復活のイエスさまには、十字架での傷があると教えていただきました。当時のわたしには、衝撃的な言葉で、これまで当たり前だと過ごしてきた歩みによって、どれほどキリストが傷ついていたかを示されることでした。主の憐れみの中で育てられ、主の赦しの中で生かされてきたことを知りました。
もう一つわたしを悩ませていたのは、若くして召されたことでした。しかし、これは友人の「長く主と教会に仕えることができる」との言葉で乗り越えられました。今でも、わたしに与えられた賜物の一つであると思っています。思い返せば信仰告白するときに、教会員の方が読んでくださったエレミヤの召命の言葉(エレミヤ書1章4-19節)に既に示されていることでした。
卒業後、教会に遣わされてからは、礼拝と祈祷会のことで精一杯でしたが、主との交わりの中で働いていることが喜びでした。教会に遣わされてから「受洗者を与えてください」「献身者を起こしてください」と祈るようになりました。教会で受洗者が与えられ、身近なところで献身者が起こされる度に、主に感謝しています。主の救いの出来事に畏れをもって仕える中で、自分が変えられ、主との関係が深められていくことは、大きな喜びです。神さまの恵みと憐れみによって、今日のわたしがあります。