伝道者の声
どん底のデモ・シカ
芳賀 力 名誉教授
【デモ・シカ○○】
ひと頃、ほかにやることがないから教師にデモなろうか、自分にやれるのは教師シカないかと言って仕方なく先生になる人のことを、「デモ・シカ教師」と称した。全然やる気を感じないので、生徒たちも困り果て、結局みんなでやる気をなくした。今は教育の現場も大変な課題を抱え込んで緊張気味なので、そんなのんきな話は昔話だろうが、同じようなことは姿かたちを変え、どこでもくり返し起るものだろう。この欄は献身を考えている人の後押しをするためのものなので、こう言うとお叱りを受けるかもしれないが、でも言いたい。もしそんな気持ちで牧師になることを考えているなら、ここに来ていただきたくない。いやこれは私個人の意見ではない。主の戦いについてこう書かれている。「恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように同胞の心が挫けるといけないから」(申命記20:8)。消極的なデモ・シカでは召し出してくださる方に申し訳ない。
【魚の腹の中で】
ところで、腰を抜かしてもらっては困るのだが、私の献身はデモ・シカであった。ただし、消極的な意味とは少しばかり違う。それは、ちょっと大げさに表現すると、本人にとってはどん底のデモ・シカであった。やりたいことがほかにあった。やれると思っていた。だが目の不調がそれを妨げた。円錐角膜と診断された。病院との長いつきあいが始まった。角膜の移植が検討されたが、当時はまだアイ・バンク制度も緒についたばかりの頃だったようで、長い期間待たされる日々が続いた。両親とも牧師だったので、ゆくゆくは神学校にという期待があったのだろうが、当人には、ニネベに行けと言われ反対のタルシシュに逃れようとして嵐に遭ったヨナようなもので、三日三晩魚の腹の中で問い続ける毎日であった。そして勉学に支障がない程度に回復した段階で、ヨナと同じように、もはやこの道シカないと悟り、私デモよければと願って、献身を決意した。
やがて時至って移植手術を受けることになった。その過程を考えると複雑な気持ちであった。入院して手術の日を待つ。それは正確にいつとは決まっていない。誰も決められないのだ。つまり、移植とはそれをどなたかに提供していただくということであり、それを待つということは、誰かが自分のために犠牲になってくださるということではないのか。自問すればするほど、複雑な思いに落ち込む。しかしそこに御旨があるなら、私はそれに身を委ねる以外にない。手術が決まり、ベッドに横たわって手術室に運ばれていく間、私のために角膜を差し出してくださった方のことを思った。どんな人生であったのだろう。そして何よりもその時はっきりと示されたことは、こうしたすべての犠牲の背後に、御子の犠牲があるということであった。私のために主が命を差し出しておられる。もうここで決まりであった。ニネベへ行けというありがたい命令に、もはや従うシカない。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。・・・・わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう」(ヨナ書2:2-3、10)。
【最高の賜物を主に!】
この肉体のとげは、今でも日々私の負わねばならない小さな十字架である。しかしそれがなかったなら、タルシシュを越えて私はいったいどこへと向かって行ったことだろう。それを思うと感謝のほかはない。
最初に、デモ・シカで献身するのはやめてほしいと言った。だがどん底のデモ・シカは、不思議な恵みの力によって用いられることもある。もしそうであるなら、その恵みの力に身を委ねて、勇気をもってここに来てほしい。
しかしそれにも増して願うことは、あなたに与えられている最高の賜物を、主のために献げてほしいということである。それは主の犠牲によってあなたに与えられている賜物である。それを主に献げないなら、いつかあなたはその最高の良きものから罪の果実を刈り取ることになるだろう。しかし罪から贖ってくださった方にそれを献げるなら、五つのパンと二匹の魚も五千人を潤すものとなる。「大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ書11:9)ことを待っている。