伝道者の声
神学することはリレーに似ている
神代 真砂実 教授
「リレーエッセイ」というもの自体は、いつ頃から始まったのだろうか。ときどき耳にする言葉ではあったが、自分が実際に任されてみて、初めて考えるようになった。いや、それどころか、そもそも「リレー」というのは、どういうことなのだろうか。
もちろん、誤解して欲しくない。別に、これまでの学校生活において、体育の中でリレーを経験しなかったわけではないから、「リレー」ということで一般に理解されていることは、私も知っているつもりである。余談ながら、東京神学大学には全学行事として運動会があって、かつて私自身が学生であった時には、リレーのメンバーの一人として引きずり出された経験もある。キャンパスを一周走らされたのだが、一見、平らなようでいて、実は細かな起伏や凸凹があるため、非常に辛かった。(今では運動会は隣接する国際基督教大学の整備の行き届いたグラウンドを借りて行なわれるので、きっと楽に違いない。もっとも、もう一度やりたいとは全く思わないが。)
辞書で調べてみると、「リレー」(英語ならrelayと書く)というのは、もともとはスポーツとしての狩にかかわる言葉であったようだ。獲物を追いかけるときに、犬や馬が疲れてしまうことがある。そこで、交代のための犬や馬を備えておき、新たに元気な犬や馬で狩を続けていく。そうした交代用の犬や馬が、本来の「リレー」なのである。
このように、言葉の由来を調べて、改めて考えてみると、「リレー」というのは、神学という学問の営みに通じるところがあるように思われてくる。あるいは、「リレー」という言葉は「神学する」ということが、どのような営みであるかを示しているように思われてくる。どのような点においてか。まず第一に、ちょうど、狩が生きた獲物を追いかけるように(狩に関する動物愛護の見地からの議論は、今は措いておく)、神学もまた、生きた対象を追いかけていくものであるということを挙げなければならない。
少し細かく言うと、ここには二つのことが含まれている。一つには、神学の対象は、言うまでもなく、神であるわけだが、この神は、聖書に証しされているように、生ける神なのだ、ということである。神は抽象的な、死んだ、動かない神では決してない。イエス・キリストにおいて私達と同じ生身の人間となられた神が、十字架の死を越えて甦られた方が、どうして、そのような生きていない、死んだ神であるはずがあるだろうか。永遠の「いのち」を約束される神が、どうして死んでいるはずがあるだろうか。
もう一つのこと。それは、私達は「追いかけ続けなければならない」ということだ。私達は神を追いかけていく。狩においては、獲物が捕らえられることは、その獲物を私達が完全に手中にすることを意味し、さらには、その獲物の死を意味するだろう。私達が神学において追いかける神は、生ける神であって、決して死なない。ということは、神を私達が完全に捕まえることは出来ないわけだ。二十世紀の最大の神学者の一人として、いまだに多くの示唆を与えてくれるカール・バルト(1886~1968)は、神学を「追思考」だと言ったけれども、それは、まさにこうした事情を言い表していると言ってよいだろう。神学は捉え尽くすことの出来ない神を追いかけ続けるのである。
いま名前を挙げたバルトが、神学について、よく語ったことには、「繰り返し新しく始める」ということもあった。これが、神学と「リレー」とが近づく、第二の大きな点である。獲物を追いかけ続けるために、新しい犬や馬が狩において必要とされたように、神学においては、生ける神を追いかけ続けるために、「繰り返し新しく始める」ことが大切なのである。別に既存のものを何も顧みないというわけではない。(どうして、途中まで追いかけてきたものを全てご破算にして、また出発点にまで戻らなければならないはずがあるだろうか。)そうではなくて、ここでもまた、まさに神が生ける神であるからこそ、既に積み重ねられてきたものを越えて、もっと丁寧に言えば、そうしたものを批判的に受け止めながら、さらに進んでいかなければならないという意味である。
けれども、そうすると、最後に気づかされる。「リレー」と神学は、とてもよく似ているが、大事なところが違うのだということに。それは、「リレー」が用いられる狩では、追いかける人間が主役であるのに対して(何と言っても、それは食料を求めるためにしても、気晴らしのためになされるにしても、人間の必要に基づいているのだから)、神学においては全てを根本から支配しているのは神の方なのだということだ。神が対象だからこそ、神学は立ち止まれない。追いかけているようで、実は神の方に引っぱられているとさえ言えるかもしれない。神を追いかけるというだけではなくて、神に従うところに、神学は成り立っているのである。神が主役なのだ。だからこそ、神学は信仰なしにはあり得ない。